轆轤(ろくろ)と呼ばれる特殊な工具を使い椀や盆など円形の木地を作る職人、木地師(木地屋)の大ロマンを語るシンポジウム「森の漂泊の民『木地師』―その伝承としごと―」が6日、熊野市文化交流センターで開かれた。多くの来場者が4人のシンポジストの話に耳を傾け、歴史に埋もれた木地師に思いを馳せた。
シンポジウムは熊野市歴史民俗資料館(更屋好年館長)が主催した。同資料館では令和元年に木地師をテーマにした企画展や発展事業を行っており、再び木地師関連の事業を望む声が多く、シンポジウムを計画した。
この日はまず、民族文化研究所が編纂した映像「奥会津の木地師」を鑑賞し、来場者が木地師についての知識や意識を共有した。引き続き、地元郷土史研究家の向井弘晏さん、朝日新聞社友の桐村英一郎さん、東近江市・木地師資料館館長の小椋重則さん、更屋館長の4人が登壇した。
更屋館長はシンポジウムの趣旨を語り「木地師は目立たなくても歴史を紡ぐ一角をなしていた。4人の話から木地師への想いを感じ取ってもらえれば」と呼びかけた。小椋さんは木地師発祥の地といわれる東近江市の小椋谷などを説明。熊野地域にも木地師が存在したことを喜び、今後、歴史民俗資料館などと連携交流を図りたい考えを示した。
『木地屋幻想』など木地師についての書籍を発刊している桐村さんは、歴史ロマンには事実と創作が入り込み、共同幻想が生じることに触れた。小椋谷で隠棲し木地師の始祖と伝わる惟喬親王(これたかしんのう)についても「もうしわけないが、小椋谷には来ていなかったのでは」との説を語った。
向井さんは永源寺町史「木地史編」の調査・分析から、熊野市域における木地史の足跡を紹介した。全国の木地師から金銭を徴収するための表である「蛭谷氏子駈帳」や「君ヶ畑氏子狩帳」からは熊野の深山30数ヵ所に木地師が存在していていたことが分かる。「蛭谷氏子駈帳」の金銭の受け渡し記録からは木地師の家族数なども読み解くことが出来ることなどを話した。
シンポジストたちはそれぞれの観点から木地師について時間の許す限り思いの丈を語り、会場を埋めた来場者が興味深く聞き入った。また、会場には木地製品の椀が完成するまでの工程パネルや江戸後期の木地製品や材料、惟喬親王の御縁起、寺社奉行裁許の請願書、令和元年の企画展のパネルなども展示され、訪れた人たちが木地師への興味と理解を深めた。