9月1日は防災の日 “本気の備え”で生き延びよ 大久保、桝本さんに聞く

 9月1日は防災の日―。本年は1月1日に発生した最大震度7の能登半島地震に続き、8月8日には日向灘を震源とする最大震度6強の地震が発生したことを受けて気象庁から南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が発表されるなど、防災に対する意識が一段と高まりを見せている。特に能登半島地震は、半島という地形からこの地方にも多くの教訓を残した。本紙ではその能登半島地震の教訓を生かすべく、石川県珠洲市で震度6強の揺れを実際に体験した御浜町の大久保興志さん(40)と、地震発生後の輪島市門前町へ学校支援に赴いた桝本善応教諭に話を聞いた。

 震源地は石川県能登地方(北緯37・5度、東経137・3度)、震源の深さ16キロ㍍(暫定値)、地震の規模を示すマグニチュードは7・6(暫定値)。石川県志賀町で震度7、輪島市、珠洲市などで6強、中能登町、新潟県長岡市などで6弱、そのほか金沢市、富山市などで5強を観測した。内閣府の発表によると輪島市では142人、珠洲市では122人が死亡、断水や停電、国道の土砂崩れ、法面崩壊、トンネル損傷など甚大な被害が確認されている。

 大久保さんは当時、妻の実家がある珠洲市へ帰省中で、経験したことのない揺れに襲われた。家族で車にいた時に地震が発生し、大きな揺れを感じて車の外へ。子ども二人を抱きかかえると、スポーツマンの大久保さんでさえ立っていられないほど。約1分間の揺れは2分にも3分にも感じ、その間には電柱が傾いて電線がたわみ、地割れも発生。古い家は倒壊するなど生命の危険を感じたという。

 津波の恐れがあったため、すぐに妻と子を高台へ走らせ、自身は崩壊した実家の祖母を救出し、車が動いたため近くにいた中学生も乗せて高台へと避難した。この時の揺れについて大久保さんは「震度5から6強の揺れに変わり、身体が持っていかれた。収まるのを待つ間は立ちあがることもできなかった」と表現。「倒壊の被害に遭った家は北陸独特の瓦で屋根が重い家や、箱形の2階建て。耐震補強や家具の転倒防止はやはり有効で、突っ張り棒なんかも効果があった。家具を固定できない場合は向きを考えるだけでも違うと思います。机の下にもぐるというのも良いですが、倒壊の可能性がある家などでは、外に出るという選択も必要かもしれません」と振り返った。

 その後は高齢の祖母がいたことから感染症を避けるため、車中生活で4~5日をやりすごした。食べ物は冷凍庫に残っていたものやお菓子などで食いつなぎ、情報は消防団の消防車からラジオを聞いた。支援物資が届いたのは4~5日後で、パン一個と水程度。南海トラフ地震が発生した場合は被害が広域になり。この地方であればもっと遅いことも考えられる。「非常用持ち出し袋や備蓄などは、自分に必要なものを少しずつでも用意して行けば良い。とにかく水を確保することで、米や備蓄品によって鍋やコンロなど『その先』のことも考えるべきと思います。私の場合はナイフなど、ロープやビニールシートなどを切るものが役に立った。あと、停電などで何もない暗闇は非常に不安。私は焚火で何とかしましたが、明かりも大切。特にトイレに困ったので、携帯用トイレはあった方が良い」と語った。

 一方の桝本教諭は1月25日から31日まで、三重県の学校支援チームの一員として被災地へ。ニュースでも再々報じられた輪島朝市の壊滅的な被害や海岸の隆起、道路の地割れや学校グラウンドの傾きなどを目の当たりにして「こんなに地面が動くのか」と、驚いたという。地震発生から約1ヵ月後ながら電気こそ使えるものの断水は続いており、給水で飲み水は確保できたが、よく言われる「風呂の残り水をとっておく」という備えも有効性を実感したそう。

 その後は学校支援に取り組む中で、避難所となっている学校の先生方の疲労を実感。再開された授業で少しずつ笑顔を取り戻していく生徒たちに安心しつつも、精神面でのケアの必要性を感じたという。「食料などはもちろん、自分なりに『これがあれば元気でいられる』というものも大切。避難所の中でもホッとできる空間をつくりだすことで、疲労感はかなり軽減されると思う」とした。

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