和田元消防監に栄誉 内閣府の危険業従事者叙勲

 熊野市井戸町松原出身。四日市で社会人として勤めていたが、故郷熊野で奉仕的な仕事がしたいと昭和45年4月、熊野市消防本部に奉職。平成20年3月に退職するまで38年の永きにわたり、一貫して消防人としての奉仕的精神を貫いた。平成19年からは消防長として活躍した。消防施設整備、機械器具強化、水防施設資材の整備等に当たってその実現に努力。地域住民への火災予防思想高揚にも積極的に取り組み、火災現場での適切な活躍、災害時における着実な行動、日常の職員指導、施設管理など常に消防本部の先頭に立ち、消防の最高幹部としてあらゆる面に多大な功績を残した。叙勲の一報に「非常に栄誉だと感じました」と話す。

 消防に入った当時は自然災害が多く、昭和46年9月10日の集中豪雨では井戸町中河原地区と波田須地区で土石流が発生。民家を飲み込み15人が亡くなり9人が負傷する大惨事となった。現場は足の踏み場もなく二次災害の危険性がある中、行方不明者の安否を気遣い捜索活動。泥と岩に埋まった家屋をスコップなども使い必死に捜索。1週間ほど家には寝に帰るだけの日々が続いた。最後の遺体が発見された時は「ようやくみんな発見できて、ほっとした。見つかって嬉しかった」と振り返る。

 平成7年7月7日夜に飛鳥町の木材加工工場で発生した火災では、直ちに現場に出動。規模の大きさから、消火栓よりも大又川からの大量の水が必要と判断し、河川の水利から消火活動を開始。必死の消火活動により負傷者などもなく、付近住宅等への延焼も防いだ。

 「小さな消防だったので、いつ呼び出しがあるかわからない。好きな晩酌も缶ビール1杯程度にし、いつでも対応し出勤できるよう心がけていました」と和田さん。平成9年には消防学校で後進を指導する立場となり、その経験が熊野市消防本部の職員の訓練にも役立った。現在の消防本部の幹部はじめ中堅職員らほとんどは愛弟子。消防の後輩たちに「物事に対して自ら進んでやって欲しい」とエールを送る。

 消防退職後は熊野地区交通安全協会の事務局長を務め、私生活では松原龍宮太鼓を40年に渡ってお世話し、子どもたちの青少年健全育成に尽力。松原神楽保存会や大馬神社の総代としても活躍し、地域から厚い信頼を受ける。趣味は日曜大工。消防時代から防火PR看板なども作っていたという。

 現在は夫人と二人暮らし。「退職後に台風が来た時、妻から『初めて台風で家にいて安心するわ』と言われました」と話し、消防という過酷な仕事を支えてくれた内助の功に感謝した。

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