熊野市木本小学校(畑中祥司校長)の4年生13人は11日、同校運営協議会委員の宮尻利春さんから戦時中の学校の様子などの話を聞いた。食べ物や遊びなど現在とはまったく状況が異なり、児童たちは平和の尊さと豊かな時代に生まれたありがたみを感じている様子だった。
宮尻さんは木本町出身、昭和12年(1937年)生まれの86歳。木本老人クラブ寿会の会長も務めている。宮尻さんは児童たちを前に「80年ぐらい前に木本小学校に入学した。今は3階建ての建物ですが、当時は平屋と2階建てだった。男子と女子は別々のクラスで、戦争に負けて戦後になり、3年生ぐらいの時に男女が同じ教室になった」と当時を振り返った。
昭和19年の暮れから戦争は激しさを増し、20年には学校にもいけないぐらいだったという。「木本には焼夷弾はなかったが、戦闘機からの機関銃で同級生の父親が足を撃たれた。空襲警報が出ると家の床に掘った穴に入り込んでいた。旧トンネルの中は人でいっぱいだった」と宮尻さん。
その頃は食べ物も乏しかった。小学生の頃、肉はほとんど食べたことがなかったが、親が漁師だったため魚は食べられた。米には麦や海藻を入れ、ご飯の量を増やした。宮尻さんは「白米が食べられたのは正月、お盆、祭り。運動会の時は炊き込みご飯を握ってもらった。サツマイモが主食に近かった」と話した。
遊びといえばかくれんぼ。上級生に遊んでもらい、竹でつくる水鉄砲などを教わった。メンコやコマ、女子はおはじきやおじゃみ(お手玉)で遊んだ。4年生になる頃には、多くの児童は親に小さなナイフを買ってもらい、鉛筆を削ったり竹とんぼなどのオモチャを作ったりした。
戦時中の登校は一度、木本神社へ集まった。そこでは手旗信号を習い、整列して学校に向かった。校門をくぐると天皇・皇后両陛下の写真が収められた奉安殿に敬礼・お辞儀をしたという。児童たちは宮尻さんから昔の木本の写真も見せてもらい興味津々だった。